プロフィール

ヒロやんのプロフィール

1946年12月11日、熊野で日本最古の神社、産田神社、花の巌神社の脇で生まれヒロちゃんと呼ばれ育つ。その頃この地では大人は”やん”を末に付けて呼ばれ母はフジやん、父はシゲやん。だから自分も早くヒロやんと呼ばれたいと思ってた。熊野高専を出て、1966年日本の首都にお登りさん、会社勤めと成るが同僚から山ちゃんと呼ばれ、いつまでも赤ちゃんのような呼び名ではと一念発起、1975年文化の華パリへと渡仏する。自転車、自動車、鉄道、バス、船、飛行機と乗り継ぎ放浪し二年後パリジェンヌを連れ立って一時帰国するも1979年フランスで結婚, 二児の父と成り、家具デザイナーwww.yamakado.comを職とする。こちらではHIROYUKIと呼び捨てにされ、古里恋しくヒロやんを夢み十年の準備期間を経て、2006年自作で帆船製作をはじめた。ある同窓生が船大工を嘗めちゃいけないと忠告してくれたけど。還暦から始める一人ぽっちのヨット製作は自分自身への挑戦です。しかし、ゆっくりのんびり進みたい、遅れたっていいんだ人生は、意思のあるところ道はあるって言うじゃないですか。船の名は”M de Mer”。MはMaman (かあちゃん)、MはMalo(長男)、MはMitsu (次男)、MはMontagne  (山)、MはMer (海)、MはMal(ワル), Mは・・・・・Mal de Mer (船酔い)、MはMiracle(奇跡)。出来上がれば古里に向かう夢、不老不死の仙薬を求め徐福の一行が熊野に着たように。ヒロやんもロマンの人。

ヒロやんのフランス生活は日本のそれを上回ったけれど反比例的に益々日本志向となっている。歳と共にノスタルジーが増した。日本人はフランス文化を好み、フランス人は日本文化を好む。しかしその文化的慣習は正反対であり、パリを訪れる日本人にはパリ症候群とよばれる適応障害を起こす豊かな日本人が多大らしい。約三万人が在仏している。多くは数年間の在住であり地域住民と関わる暮らしはなく日本文化を強く主張する事もないとの事。自分の職業的表現であるが日本人は平面図的でフランス人は断面図的と思う。日本人は場の雰囲気で全てを理解しようとするがフランス人は全ての情報を得ないと理解しない。であるから、日本人は価値観の異なる異文化とのコミニケイションは苦手で外交的優位にたてなく善良にもかかわらず劣勢になりがちだ。海外生活は変なファッション文化人を気取るより過激に日本文化を主張し友好しよう。そのためにはまず日本語を正しく話し、歴史を知り、日本人文化度を磨かなければならないと思うが、これらは親からのしつけに影響され、放任主義で育ち工業学校出のヒロやんの欠点です。でも今からでも遅くないと思う、不老不死を目標にしてるから。

フランスは浦島太郎の訪れた竜宮のように思えた。見事な建築群、芸術はルーブル美術館に代表されるように広範なコレクションと話題、豊富な図書館、映画、贅沢品、美食術等限がない。フランスはかってすべての時代に於いて多くの人間集団の移住によりそれどれの文化の特徴を反映し新な発明、創造があり十七世紀十八世紀のそれらが多様な現代のフランスの大部分を構成する。しかし最近は世界的な新アメリカ文化の影響も無視する事が出来ない。ヒロやんのフランス生活は無計画で始まった。アニエス ( 妻)と彼女の両親の援助で自宅の建築(建て面積250平方メートル以下なら家主自身で建築できる)から始まり、続いて家の家具製作。それが高じて家具デザイン殿等に参加するようになる。幾つかの賞を受け、家具デザインが職業と成ってしまった。それがYAMAKADO社として発展し現代に至っている。浦島太郎は竜宮で夢の三年間を過ごし父母が恋しく、おみやげの玉手箱を携えて帰ってみると何と古里は三百年の時間が過ぎていたと言う。ヒロやんは三十年過ごした。古里が恋しくなった。ヨット製作がはじまった。

夢をみている。人は太陽の恵みに感謝し、天道の基に自然を恐れ、その力を崇め、謙虚に身を謹んできた。今日も天道は変わらない。しかし人は変わった。欧米文化は資本主義を発展させ自然を恐れなくなった。アメリカの社会学者がすでに指摘している ”欧州人は自然を征服しようとする、メキシコの農民は自然に服従する、日本人は自然と共存しようとする”。しかし、その日本人は広島、長崎の原爆被害者であるにもかかわらず伝統ある真善美を忘れ、欧米志向の思い上がった考えがこの国に頻繁に起きる地震も恐れず、津波に因る福島原発大惨事をおこし放射能の黒い雨を再び降らせてしまった。賢明な大多数の世界の人々がこの地上で最も優れている人類は “こんな美しい地球を滅ぼす訳にはいかないのだ” と叫んでいるのに。悪夢の三月十一日。この日に前後して一通の手紙を受け取った。差出人は三十三年間連れ添った妻の弁護士。我が家にもすでにあった地震の予兆から大津波がやってきたのだ。離縁の協議招待状である。妻は五十八歳、当方六十四歳、いい歳をして思い上がった考えが灰色の雨雲に覆われた。

離婚原因はあまりにも一身上の問題で綴れない。高齢夫婦の離縁話しは当事者だけの問題で摩訶不思議な糸のもつれのごとく他人には手の尽くしようがないと思う。お互いの弁護士には仕事量の多い儲け事かも知れないけれど。十ヶ月程費やした和解離婚協議は結局家庭裁判所に持ち込まれた。判事の執務机の前に並べられた三つの椅子は、離婚調停は若いカップルがほとんどで、弁護士を共用し三名で穏やかに進められる事を象徴している。判事が隣室から我々の為にもう一脚貧弱な折りたたみ椅子を運んできた。交番での犯罪者取調べ用椅子の方がよほど立派だ。一時間半遅れて始まった第一審は十五分で終わった。我々の二人の息子はすでに成人独立していて、変わらぬ離婚意思の確認と共有する住居と使用車の割り当てを決定するための質問だけが今日の判事の仕事である。通常、三ヵ月後にその決定通知があるらしい。これから一年ぐらいの時間を費やして夫婦という関係が血を分けた子供達を残し再び赤の他人となる。その後は風に吹かれて、天国に最も近い赤道の南の島々を巡って、何処ででも、何を食しても、自己責任において自由に行動して生きてゆく風になりたいと希望する。

3・11。一年前の今朝7時30分、通勤途中の車で東北太平洋沖に大地震が発生し津波により相当な被害がもたらされ、まるで戦争が始まったような日本のパニック状態を報じるフランスインターのニュースを聞いた。すぐに車を安全帯に止めて広島の妹に電話をした。電話口にでた妹はまるで狐につつまれたようなノンビリする声で「まあほんとに、なにもそんな事知らんけ、誰もこちらでは騒いじゃいないし」と応じた。ニュースでは現地時間14時46分の発生だそうだからもう丁度二時間経過しているのだが・・・・。妹一家はまったくその惨状を伝えられる事無く、何時もと変わらぬ穏やかな早春の午後を迎えていた。一万キロ離れたフランス国民はすでにその事で、とてもヤキモキしているというのに。情報伝達の制約差を感じる。政府の情報公開問題が専門家達から批判されている。不透明は人々に一層の不安を与え苦しみをつくる。迅速で正確な情報公開は苦しみや怒りのある人々にも、それに耐えようと努力させる。為政者の価値は現実を的確に極め未来を見通し人々に苦しみに耐える勇気を与え希望を見い出させる事である、と聞くけど。夕になって観たテレビに延々と映し出される津波被害の映像はまるで現実離れな悪趣味のトリック映画のようである。この世のものとは思えない。すでにチャルノブルイにつずく大惨事を起こした原発は当然全面廃止すべきである。技術は永遠に不完全で自然を超える事は出来ない。故郷をなくした人たちに我々はどのような責任を取れるというのか。

時間が澱んでいるように感じる。長年住み慣れたパリを離れ、居間の窓越しに古城が覗くル・ルワールの川渕に建てられた、古い小さな家に六年前から住みついている。川は斜交いに塞き止められ、右岸左岸に水車跡が残る。右岸には油圧式調水装置が取り付けられているが左岸の水車は今でも住人により修復され装飾的に回転を続けている。せせらぎと此の水車の鈍い回転音がわずかに時間の進行を認める。居間の窓から釣竿を垂らす事も出来るのだがあまりにも不精者的なので多少の勇気をだして庭先に泊めてある小船を出し流れに任せ陽にあたる。川は大陸を流れ下るので土を運び水草を茂らし苔色をしている。魚は豊富で川面の虫めがけて跳ね上がる。やがて陽は沈み月がとって変わり、人の世は信じる者だけが虚構のなかから真実を見つける。だが明日にはどんな世が来るのか誰にもわからない。ヒロやんの三十五年のフランス生活は走馬灯が無意味にただ時間の過ぎ行く流れだけを記憶するようによみがえらせだけで前夜の眠りの前と何が変わったのか見えない。まわりの風景も昨日と変わってはいない。しかし新しい世界に向かう準備はしなければならない。一年過ぎた離婚判決が間もない。

フランスは新大統領に「左派」ホランド氏を選出した。「左派」への信任は国民の明日への希望であり、悪化する経済状況下の失業が最大の不満として共通する背景にあるとメディアは報ずる。同日に行われたギリシャ議会総選挙でも2大政党が大量に議席を失い極左右系の進出が著しい。ユーロ加盟国で政権交代や指導者の退陣が相次いだ。日本では首相が頻繁に変わる。市場のグローバル化は民主主義国家を蹴散らし猛スピードで進む。強力なリーダーシップを持つ国家政府とユーロ連合の政治力が明日の世界を希望へと導くために、今、国民の真価が問われている。政権が変わったからといって全てが再びゼロから始まる訳ではない、問題は深刻で危険だ。当分、国民は痛みを伴う政策に耐えなければならない。昔の人は「良薬は口に苦し」と教えている。

フランスでは交通渋滞緩和や二酸化炭素減少そして経済性を目的に「乗り合い自家用車制度」がよく普及している。若い知人の勧めで一時帰国に際しパリまで300K M利用した。インターネットで自宅から歩いて十五分ほどの町外れにあるハイウエーの入り口で待ち合わせ約束を取り出かけると、一分と遅れずハイウエーから小型車が現れ、二十代の女性運転手と助手席にこれまた二十代の女性がにこやかに手を振りながら、片隅に折りたたんだ手押し車を乗せた後部座席に招き入れてくれた。車はオートマティクで運転手はハンドルに装備されたブレーキとアクセル・レバーを器用に操りハイウエーに再入した。運転手は地方出張の帰りで、もう一人の女性はパリの某社に就職面接に行くとの事である。フランスの失業率は10%に達し若年者の就業はままならない、その一方身体障害者の社会参加は注目に価する。障害者に対する国民の愛と行政の理解は日本の比でない。小子化が進む日本ではまもなく団塊世代が超高齢者社会を形勢し二十五年後には大量死時代がくると予測されている。長寿国日本を喜んでいる場合いではない。人口減少は生産力を低下し国家の財政を悪化する。元気な高齢者は豊富な知識と経験をいかし福祉やサービス業などの分野で活躍できるし、仕事も求職活動もしていない15歳以上の女性達が日本に2940万人いるらしい。近代化された工場やオフィースで能力を発揮できる身体障害者の数も相当なものだろう。日本経済を支える側の潜在力は十分にある。明確な国の方向性と政策は人口減少が続いても経済成長がまだ約束される日本である。

ヒロやんのフランス生活の背景として日仏の「男と女」の文化差が面白いと思い記します。フランスでは現在、両親が伝統的な正式結婚をしていない婚外子が過半数に至り、事実婚は普通なのだと言われる。新大統領ホランド氏とファーストレディーである政治記者バレリーさんの関係も普通のフランスを代表する事実婚カップルであり、国民からはなんら問題に成っていない。バレリーさんは二度の離婚を経験し子供が三人いるし、ファーストレディーとなっても記者を続けるとの事。一方のホランド氏も一度、長年の事実婚があり四人の子をもうけている。二人は2006年頃からの交際らしい。フランスでは確かに他人の私生活の問題には寛大である。しかし、フランス大統領カップルを迎え入れる国外の反応はどうなるだろう・・・・・事実婚が保守的な諸外国で外交上の障害になるのではと日本の新聞は危惧する。日本の「男と女」は如何だろう。1980年代に男女雇用機会均等法が制定されて以来有能な女性が各方面の職場社会で長期に雇用され男性に負けず活躍している。しかし、2006年の世界経済フォーラムは世界の男女格差報告で日本は115カ国のうち79位としている。一方、男性は職場に女性達が進出し恋愛に縁がないわけではないのに異性に積極的でなく「肉欲」に淡々とした「草食系男子」と報じる。男女格差の残る日本であるが社会全体の恋愛不慣れは独身者人口を増加させ少子高齢化を助長した。2007年代には古くからの価値観で「婚活」つまり結婚活動が必要であり「結婚」しなければ孤独死が待っていると社会学者やマスコミが男女の不安を煽り、現代、メンタルクリニックには「婚活」疲れから不眠症や不安障害になった患者が多いとの事である。

春たけなわ。春の陽気は湿った大地から新芽を勢いよく飛び出させ草木に色鮮やかな花を咲かせる。ケモノは発情する。春は青春であり性春でもある。高齢者にとっても春のある生活は生きる力の源であり幸福感を膨らませる。フランスでは毎年五月一日に街角のパン屋の傍には必ずスズラン売りの娘が立つ。年配の男達は長形のパンを脇に挟み列をなして妻のためにと花束を買っている。この古い風習は近年ますます盛んで組織化しているようだ。五月一日にスズランを手にいれ愛する人に贈る習慣は16世紀の宮廷の貴族の恋遊びが起源とか。贈られた者には幸運が訪れると言う。春いちばんに威勢よく鈴なりの香りよい花が咲くスズランは昔から幸せを呼ぶ植物として愛される。晩春がきて多くの花たちは散る。我が家の庭のバラに小さなツボミがふくらんだ。バラは和語で「いばら」の転訛したもの。フランス語では「ローズ」。ピンク色の意味も持つ。ラテン語に由来する名で、古代ギリシャ・ローマ時代には愛の女神ビィーナスと関係ずけられたそうだ。チベット周辺が主産地でここから中近東、ヨーロッパへ、又極東から北アメリカへと伝播したバラが何故に日本ではその名に傷みを伴うトゲが強調され、一方フランスでは甘い香りの愛となるのだろう。愛に満たされた国は言葉の愛は必要ないのかも。

五月十八日は長男の誕生日。バラの蕾みが膨らむ季節にパリ郊外で生まれ育ち当年三十三歳、現在東京都心に住んでいる。まさに「光陰矢の如し」である。太陽の光がほどよく降り注ぐ湿地帯のある中央アフリカの何処かで、およそ6500万年まえに人類の祖である生物、霊長類が誕生して以来、人類は進化を繰り返し繁殖し世界の荒野を開拓しながら、遺伝子は一度も絶えることなく受け継がれ、そして君はその日生まれた。欠ける事のない「命」の継承が、君を「生きる」ために産ませた。生き物には例外なく死がおとずれるが人は死ぬために産まれるのではない。君も命を燃やして、自分の人生の目的を信じ、生きる意味と幸福をつかんでほしい。三十三歳は父親に成る自覚を持つ年齢にふさわしい。日本人は永遠の生命を代々受け継がれてゆく血に託し、「人は不死」と精神化する。         息子よ、君が父親に成る時、ヒロやんは不死を手に入れるのです。                                      Bon anniversaire!  Mon MALO.            Papa.

ヒロやんの古里熊野には「不老不死の仙薬」にまつわる伝説が伝わる。中国紀元前三世紀に強大な権力を手にした始皇帝は死を恐れ、不老不死を得るため方士である徐福に蓬莱の国へ行き仙薬を持ってくるように命じた。徐福は三千人の童男童女を集め出帆し、試練を克服しながら終に漂着したところが熊野の地で、無論「不老不死の仙薬」は存在せず、始皇帝の怒りを恐れた徐福はこの地方に農耕、漁業、製紙等を伝え亡命したという伝説である。他方、始皇帝に無理難題を押し付けられた部下達が錬丹術により作り出した仙薬は水銀で、それを飲んだ始皇帝は猛毒により死亡した。無意味な専門家に依る延命治療努力は危険極まりない。現在は安楽死の是非なる論理の議論が盛んになり、個人自身での長寿健康管理が新しい時代の潮流になっている。 ヒロやんも老化現象が気になりだした。白髪が増えて視力が低下し身体のバランス能力や反射運動がにぶるし頻尿傾向にある。判断力、推理力はまだあるが記憶力は気になる。気分転換と健康増進のために散歩をする。外出すれば陽を受けて無料のビタミンD、野鳥の鳴き声に耳を澄ませば聴覚力訓練、歩く刺激で筋力維持、出歩くことで他人との出会いもある。このように人にとって心身ともに好作用する仙薬的な散歩である。しかし、この散歩の語源を調べると驚きだ。中国の三国時代に五つの薬石を処方した五石散という麻薬が貴族や文化人の間で「不老不死の仙薬」として流行した。これを服用すると体が熱くなる「散発」現象があり、それがないと体に毒が溜まり害になるとされ、「散発」を促すべく歩き回ったとの事。「散発」のために歩くことを「散歩」と呼び、これが転じてただ歩くことを「散歩」と言うようになった。ちなみに、この五石散は「散発」があろうがなかろうがひどい中毒症状を起こし命を落とす者も多くいたという。 (ネット検索による)

雨の日や風の強い日に外出する勇気はないが、当てもなく気の向いた時間にグウタラ散歩に出かける。地方の小さな村だが隣近所同士の付き合いは希薄で 、この散歩時が村人とのわずかな立ち話し時間になる。もう一人日本人がこの村に住んでいるという。診療所の医者の奥さんでピアニストらしい。花粉症を理由にこのお医者さんを訪ねたが彼女は現代帰国中でしばらく留守との事、会いそびれてしまった。散歩時、犬を連れた人らによく出会う。ヒロやんは犬が怖い。鎖につながれていない犬に遭遇した時の不快感は吐き気を催す程である。個別的恐怖症である。大多数の散歩人は犬の散歩が目的であり、ヒロやんがこの恐怖の対象を避ける工夫をしながら歩くのは容易でない。子供の頃に無知で体験した犬の恐怖経験がいまだにヒロやんの滑稽な個性の一つであるが、間もなく下されるであろう離婚判決もまた恐怖である。この恐怖感情は怯えから好戦的な態度へと生理的反応を起こさせ和解に至らせない。反撃的なヒロやんの顔つきは眉間に縦皺を寄せ、目を広げ、唇が水平に伸びた不動明王( 災害を除き、財産を守る功徳があるとされる不動尊 )の顔である。

ヒロやんの不幸は義兄の帰国から始まった。米国で長年管理職を勤めた義兄が不況のため経営困難に陥った会社を早期退職して2002年に引き上げてきたのである。当時、義父の投資援助を受けた我がYAMAKADO社は急成長中で義兄の状況とは正反対の幸運を得ていた。ヒロやんは数々のデザイン賞を受け参加する多数の国際エキシビションに於いても良い評価を獲得し、作品は国際的に流通した。そんな時、義兄は自身の経歴を誇示し妻を通じて我が社の更なる発展を約束し、協力を申し入れてきた。しかし彼はデザイン及びマーケッティングの知識は全く無く、ブランドを発展させる能力に疑問を感じたので影で妻の業務助言のみしてくれるよう頼んだ。この決定が彼の自尊心と嫉妬を逆撫でしたようである。ヒロやんの悪い噂が社内で囁き始めた。家庭では横暴で異性問題があり、経営は無能で独裁的、フランス語の程度は低く正確なコミニケーションの出来ない外国籍者、等々である。多くの社員はヒロやんのデザイン力や確かな方向性を認めていたので急に立ち始めたそのような噂は信じていなかつた。しかし何時しか時間が経つにつれ、ヒロやん派と噂派ができでしまったのである。噂派は歳の老いた義父の代理との理由で時々来社する義兄に依る影響を受けたと目に見えていた。それ以来ヒロやんの不幸は経営問題から家庭問題へと燃え上がり、手の付けようもなく裁判官の審判を待つに至り顔は引き攣っている。

このようなヒロやんの不幸はまず妻との幸福な出会いがあるからであり、彼女との出会いが無ければ、彼との不幸な出会いも無い。不幸な出会いは幸運に付加されたものでヒロやんの不徳に依るのである。彼女と出会ったのはベンガル湾を渡るインド・マレーシア定期船上であった。洋上で日食現象があり、デッキに大勢の船客がその観察に集まった時である。彼女は天文物理を専攻していて其の日の現象を予知していた。日食観察用板を貸してくれたのが縁である。彼女は大学を卒業し数学教師に赴くまでの数ヶ月間、アジア諸国を周回する旅のフランス人。ヒロやんは一年間の欧州自転車旅行後、大陸つたいに帰国をめざす旅の人。この縁が二人を日本に向かわせ、更にシベリアを鉄道で横断しフランスに帰り、バラの季節に一子を授かると言う幸福な日々がある。二子は四年後の昼夜の長さがほぼ等しくなる春の日に誕生した。日本では自然に感謝し、生物をいつくしむ、春の訪れを祝う日である。

あれからずいぶん時間が過ぎた。生活に自分の活動を持つ事ができたのでカルチャー・ショックは無かった。多くの国を旅し多様な文化との交わりを経験していたからだろうか。いや、それはあったのだろうが、自らの振る舞いを見直す必要のない環境に、長く甘えていられたからだ。だから今、義兄の干渉が意図も簡単に夫婦のバランスを崩す事が出来たのだ。夫婦の関係には言葉を使って伝えるコミニケーションより言葉を超えた表現のメッセージでより強く結ばれている。しかし、今では僅かな不快感に怒りを爆発させる。この国の習慣に否定的な態度をとり、パラノイア症状的で過度な自己防衛態度をとり、同国人が恋しいのである。強いカルチャー・ショックの現れだ。人は誰でも人間関係の問題には自己中心的な思考をし、心が乱れ、被害者意識か為善者意識を起こし紛争を発生してゆく。ヒロやんのその思い通りにならない心は彼の問題を更に増幅させる。高齢者が異国で孤独に耐えてゆくには不安が多すぎる。しかし、この問題はすでに何かによりプログラムされていたように思われる。其の記憶は突然脳機能が誤接続を起こしたようにあらわれた。初めて義父に会わされた時、彼が「一度結婚するのもいいだろう」と発言し、まるで我らの国際結婚は成功しないと確信している口調だった。すべては遺伝子の中に前もって設定されていたかのように、五感が緊張し身体はくたびれる。深呼吸して、散歩に出よう。ルワール川の流れのように、ヒロやんも時の流れに身を任せ心を静めなければならない。爽やかな陽射しの六月のフランスだ。

ル・ルワール川の左岸を始点にサン・レオナー通りが北側が1番地、南側が2番地と始まりつづく。1番地は11世紀に建てられたチャペル・サン・レオナー。ヒロやんは2番地に住んでいる。散歩は家から左回りに村の宝で歴史的遺産の古城を囲むようにおよそ4K mの距離を歩く。一直線なサン・レオナー通りを直ぐに左に折れると草むらの遊歩道に入り大きく左カーブしながら川上の鉄橋に通ずる。途中、石のベンチが設けられた所では子供達が学校帰りのカバンを放り出し、草原で球遊びに夢中になる。鉄橋は細く少し揺れるが手すり等の安全性には気を配り両脇に小間隔でワイヤーが更に張られ幼児への保護対策は怠り無い。橋上からの眺めは素晴らしい。豊かな水の流れと左岸にはよく手入れされた水車が回る。絶えない鳥のさえずりに、水面では水鳥がシンクロナイズをみせる。右岸には尖がり円錐屋根の旧城主家の専用洗濯場がいにしえの川の賑わいを残す。城はこれら世のもの全てを手中にしたかのように天を突く。橋を渡りきると村営のキャンプ場に至る。三月末頃から近在のご隠居さんが愛車に古いキャラバンを引きずって、待ちわびた屋外の日差しを求めて一組、二組と現れる。爺さんは日長、ワイン片手に釣れない釣り竿を垂れ、婆さんは時間の浪費が法律違反でもあるかのように、何やら小忙しい。会話は少ないが互いの眼差しは優しくまつ毛にゆれる。支流になるセセラギに沿って進み、国道を横切って村の東に出ると石垣に囲まれた菜園がある。今は小さく区切られ運の良い村人達の週末菜園だが、中世期にはこの菜園からの恵みとル・ルワール川の魚が砦城を守り抜いた。石垣の外にそう小道は人がすれ違うのがやっとである。菜園を過ぎると伝統的な古い球戯場 (ボーリング) を見つける。いつも開店閉業状態であるが時々細々と昔を懐かしむ老人たちが集い、自身の健康管理の運動として利用している。活気を失った商店街を過ぎて城門をくぐると広場が開ける。年に一度だけ三日間大規模な骨董市が起つ広場だ。其の日の骨董市は広場からはみ出し商店街も埋め尽くす。それは国中に知られた催しらしい。城の坂道を下ると国道に出て、すぐに頑丈で美しい五重のアーチを持つ石橋に至る。この石橋を渡る中央からの眺望も素晴らしく、散策を楽しむ人々の恰好な被写体である。三羽のアヒルが常駐し、ヒロやんの家の庭側も手に取るように見える。石橋を渡り少し歩き左折すると再びサン・レオナー通りに戻る。これがヒロやんの村の勧める遊歩道に沿った初夏の散歩コースである。

六月四日。メディアはカナダで起こった猟奇殺人事件の犯人が、ベルリンで逮捕されたニュースを盛んに流している。カナダから「社会の敵ナンバーワン」とされ、国際指名手配されていた。この犯人はカナダ保守党本部に人間の切断された足を送り届け、其の上に、殺害した被害者をバラバラに切断するビデオを撮影しネット上にアップロードした。其の上に、彼は過去にも二匹の子猫を惨殺し、其の動画をネット上にアップロードして、次回は人間を犠牲にすると«The Sun  »紙にE –mailで予告していたと言う。ヒロやんの興味はこの犯人の何がカナダの「社会の敵ナンバーワン」と報道されるのかだ。この事件は一人の精神異常者による何処でも起こりそうな現代の猟奇殺人事件に過ぎないと思えるのだが ?。実況ですら、映像で殺人事件が放映されるのは初めての事ではない。バラバラ殺人事件や動物惨殺はよく耳にする。という事は間違いなく権力、カナダ保守党本部への一度の異常行為が精神病者を「社会の敵ナンバーワン」と呼ぶのだ。誰からも同情を得ない犯罪の「社会の敵ナンバーワン」は近年の現象である。日本ではオーム教のサリン散布殺戮事件がある。かって、「社会の敵ナンバーワン」には庶民の支持を得た者が多いのだが。最近映画化もされ今だに人気のあるフランス人のJacques Mesrine (1936  – 1979)やアメリカ人のJohn Herbert Dillinger Jr (1903 – 1979)等々、世界には多くいる。1934年7月22日、「社会の敵ナンバーワン」と呼ばれたデリンジャーはガールフレンドのPolly Hamilton とAna Cumpanas (別名 :アンナ・セイジ) と共にシカゴ近郊で映画を楽しんだ。映画が終わりデリンジャーらは劇場を出たところ、待ち伏せしていたFBI捜査官達に取り囲まれた。そして、一斉射撃を受けデリンジャーは殺された。この時 、売春宿の女将アンナ・セイジは派手な赤いドレスで顔なじみのデリンジャーに同行し、FBI捜査官らが見間違わない様に、彼を裏切っていた。FBI捜査官らが誤情報により無実の一般人を射殺し、市民の非難がFBI長官エドガー・フーヴァーに集中し、デリンジャーに2万ドルの懸賞金がかけられた翌月の出来事である。デリンジャーの死から2年後、情報提供者のアンナ・セイジは母国ルーマニアに強制送還された。以来、「赤いドレスの女」は人を破滅に導く裏切る女として嫌われる。ヒロやんは一度、台湾旅行の土産に赤いチャイナ・ドレスを妻に買ってきた。彼女はそれが大変気に入って、よく友達の集まるホーム・パーティーで着ていたのだが・・・・。まさかそれが裏切りの原因でヒロやんの不幸が始まった訳ではあるまい。

帆船製作計画は余生を順風にまかせて流れる船となるはずだった。しかし今、完成を目の前に自ら起こす暴嵐雨で其の進行を妨げる。カルチャーショック症状のヒロヤンは日に日に強く古里を恋しく想うようになっている。ヒロヤンの故郷熊野は2004年7月、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録された。熊野は古来より山岳修験の行場で、神話の舞台に登場する重要な聖地である。かって浄土信仰が興隆したこの地に、那智の浜から歩いておよそ十五分、補陀洛山寺に或る奇習が伝わる。補陀洛山寺は五世紀にインドから熊野に漂着した裸形上人により開かれた寺と伝わる。この寺では「補陀洛渡海」と称し代々の住職は六十一歳の十一月に、遥か南方の海上にあるとされる観音浄土をめざして船出したと言う。渡海僧が乗り込んだ渡海船は復元され寺に展示されている。小船は中央に作られた小屋の四方に鳥居が立てられ、渡海僧が三十日分の食料と燈油を用意し乗り込んむ。乗り込んだ後は脱出できないように外から釘がことごとく打ち付けられ、伴船に曳航されて沖に出る。綱切島という島の近くまで曳かれて行くと曳き綱が切られ動力装置のない渡海船は大波によって沈むまで漂流する。但し、船が沈むさまを見た人も、渡海僧達の行く末を記した記録も存在しない。868年から1722年の間に25回行なわれ、寺の石碑にそれらの僧達の名が刻まれている。ヒロやんの故郷は天国を夢見て船出するロマンの人達の郷でもある。ヒロやんの曽祖父の弟は頭脳明晰な僧で向学心に燃え、仏門を極めたく観音浄土の国に憧れ、この那智の浜から小船で出航したらしい。航海術の無い彼の小船は大波にさらわれ四国の何処かに打ち上げられたが、苦労して鹿児島までたどり着いたと言う。ここから更に南方へ向かう船を物色中、怪しき僧が国外脱出を計画しているとの垂れ込みで、薩摩藩に取り押さえられてしまった。時は幕末、国の運命を賭けた勤皇佐幕騒動の真っ最中、この時勢に密出国を企てるとは重罪なりとお咎めがあり、彼は投獄された。そして数年、牢獄で死亡囚人らを弔う僧として獄中生活を送りながら獄死した。

ヒロやんがフランス移住を母に告げた日、母はしばし沈黙のあと答えた。「そうかえ」と消える声で、そして「おまえはわしの宝じゃでいつか家に帰って来ての」と。ヒロやんはそれに答えず国を出てすでに三十五年、地球は1万2千775回転した。母は老いて89歳、認知症障害があり年に一度訪れるだけのヒロやんの記憶など既にない。母は四人姉妹の次女として生まれたが姉が障害者の為、祖父の肝いりで、終戦で戦地から村に帰ってきた父を婿養子として迎え家督を継いだ。一年後ヒロやんが産まれ、祖父は男児の誕生に我が世の春と歓喜したらしい。ヒロやんは母方の姓で伝統的には家督継承の第一人者と成る。日本は子孫の継承に家が優先する。フランスでは婚姻で母方が父方に優先して姓を代表する習慣は無い。産まれる子の姓は自然に父方である。幼きき頃の父と母の愛に包まれて過ごした幸せな日々をヒロやんは懐かしむ。今、老いた父と母をル・ルワールの川に涙を流して密かに想う。此の流れの果てに母国があり、空には無限の星が光る。ヒロやんの浄土は東方の遥か彼方の海上にある。もうすぐ帰る、きっと帰る、星を頼りに海上の彼方の古里へ。

帆船で南の島を巡りながら故郷を目指す計画は十五年前。妻のイニシアチブで多数の知人が集い、航海計画発表パーティなどと気取った催もした。ヨット雑誌を手始めに多くの帆船と航海に関する書物をあさり、自船のイメージが膨らんだ。その頃、ヨット雑誌の記事で帆船アチュア製作者に理解のあるヨット設計家ダビィド・レアー氏を知り、彼の帆船クラッシック38設計図を購入した。ヒロやんのYAMAKADO39はWEST工法で船体製作される。WEST工法とはWood (木材), Epoxy (エポキシー樹脂), Saturation(浸透、FRP), Technique (技法)による造船工法で軽量、強靭、高絶縁性、製作安易等々利点が多く、日曜大工能力と道具でエポキシー樹脂からのアレルギーに注意して作業すれば単独で製作できる。ヒロやんの難関は船腹を天上に向けて製作された船体、長さ11.5m、幅3.5m、重量1.5トンの船体回転作業である。櫓を船首と船尾に建て、それぞれに鉄棒を船体の末端から最初の仕切り壁まで貫通し、静かに回転させる。貫通した鉄棒軸が船体の重心を得ていれば回転は片手で事足りるが一人作業のリスクは高く大事故になりかねない。慎重に慎重を重ねて作業する。結果は上出来であったが作業中の緊張は計り知れく全身が凍ばる。このようなきつい仕事を済ませたあとは、引き攣った全身の神経を何かでほぐす必要を感じる。飲めない老人のヒロやんでもアルコールとセックスの欲望が起こる。

製作を開始して一年経過した頃からエポキシー樹脂の取り扱い不注意と無知でエポキシー・アレルギー症に成ってしまった。おそらくエポキシー接着後の研磨作業による煤塵の影響だと思われる。エポキシー樹脂が十分乾燥しない常態で研磨したのだ。乾燥には好天でまず一週間が必要なところを三日目ぐらいで研磨作業を急ぎ、生乾きのエポキシー樹脂粉塵が顔面に付着し目が腫れ上がってしまった。少年時代に遊び場にしていた里山に入り、知らずにまっすぐよく伸びたハゼの木の枝でチャンバラ遊びの木刀を作り、メチャクチャかぶれた記憶がある。目は塞がり顔に発疹がでた。腕も酷く、強烈なカユミと熱をもち腫れ上がる。最初の感染はアレルギー症状を体内に記憶し次回から益々症状を激しく悪化させた。僅かの発汗でさえ発疹し、カユミは激しく無意識に掻いてしまい、更にカユミは増し皮膚が爛れる。強力に感染してしまった場合は治療法は無く、原因となる物質に接近しない事のみである。製作途中、強度なエポキシー・アレルギー症に犯され挫折しなければならない製作者も多々ある。認知症の母に面会した時、母はヒロやんの酷い傷跡の手の甲に目やり、その訳も知らずヒロやんの生活苦でも想像するかのように手を握り涙した。

マリーン・スポーツの盛んなフランスはアマチュアによる外洋帆船製作もまた珍しい事ではない。太陽をイツパイに浴び、自由に南方航路を漂いながら冒険する若者もいれば、そこに余生を夢見る老夫婦も数ある。地球の71%が海である。古代、海は長距離の人と物の移動に陸地を足で旅するより時には安全ではるかに効果的であった。帆船は紀元前4000年頃ナイル川やチグリス・ユーフラテス川流域で発達し、地中海やアラビア海に乗り出した。東南アジアでは紀元前3000年頃モンゴロイドがアウトリガー付きカヌーで帆走を始め、次第に太平洋の島々へ拡散していったと言う。港には海の放浪者と有閑貴族と潮風が同居する。航海目的はさまざまであるが、夫々共通する自由とロマンを海に求める事に変わりない。あの消えた補陀落渡海の僧たちは何処に浄土を見つけたのだろう。ヒロやんは夢想する。曳き綱を切られた渡海船はしばらく外海の荒波に漂うが、海は大自然の空間で荒れ狂い、一人ポッチの僧を人の知恵に勝る真実に目覚めさせたに違いない。僧は板隙間から曳き舟の影を追い、水平線に消えているのを見定めると釘打ちされた板壁を破り出て、十一月の北風を受けながら黒潮の逆流に乗り南の島に辿り着いたに違いない。渡海僧は洋上で宗教を捨て漂着地の島人と仲良く自由に暮らしたに違いない。島人は新しい血を歓迎し、間々ある得体の知れない漂着者の噂はじきに消え、それを記録に残す島人は誰も居ない。多かれ少なかれ大洋に浮かぶ島人の記憶は渡海僧の船出物語に重なる。海が希望を新天地に運び届ける。僧は次第に島語を理解し島民に農耕、漁法を教え医術をほどこし、島民は僧の高い教養に敬服し彼を天下った神のように崇めたのかも知れない。島民の絶大な信頼を得た僧は現代でも密入国成功者がパスポートを焼却するように身元判明を恐れ全ての記録を抹殺し、新しい島の神話を創作したかも知れない。

ヒロやんの夫婦生活は結局、第三の弁護士の仲介で互いの世界を尊敬し協議離婚で終わろうとしている。青いプラネット上の東西に異質の世界が存在し、二つの世界が一つに成り結局二つに帰る。ヒロやんは自ら帆船を仕上げ海に出るだろう。妻はYA MAKADO社を受け継ぐ。ヒロやんの古里に日本最初の「結婚と離婚」に関する神話が伝わる。産田神社と花の巌神社に祀られるイザナギとイザナミによる国生み神話は夫婦神話である。天下り島に降りたイザナギとイザナミの二人の神の会話は超素朴で面白い。男神イザナギが「あなたの身体はどのように ?」と女神イザナミに尋ねと「私の身体には一つだけたりないところがあります」とイザナミは応えた。イザナギは「自分の身体には一つだけ余っているところがある。自分の余っているところをあなたの足らないところに挿し塞ぎましょう」と誘うと、イザナミは快承し夫婦となる。その結果日本国土を形ずくる多数の子をもうける事となり、更に神々を生み続け最後に「火の神」火之迦具土神を産んだ時イザナミは陰部を火傷し亡くなってしまう。其の地は熊野の有馬村(産所が産田神社で、墓所が花の窟神社)と「日本書紀」に記される。イザナギは妻の死を悲しみ忘れられず死因となった火之迦具土神を剣を取って殺し黄泉の国を訪ねる。その死の国でイザナギは「見ない約束」を破り死後のイザナミの腐敗した姿を見てしまう。変わり果てた其の姿に驚いたイザナギは慌てて逃げ出し、恥をかかされたと激怒したイザナミは恐怖で逃げ回るイザナギを追いかける。しかし、イザナギは黄泉比良坂を大岩で塞ぎイザナミと離縁した。さすがに日本の国を創造した神様は凄い、男神は亡くなった妻をあの世まで追いかけ激怒させそこで離婚する。この後女神イザナミは黄泉の国の大神に成ったと言うし、そこから帰った男神イザナギは、汚らしい国に行って来たと水を浴びて禊し、更に神々を生み最後の三貴子(天照、月読、須佐之男)に大満足し隠居する。日本の国生み神話は「男尊女卑」甚だしい。おそらくイザナミは新しい血を求める土着の娘であり、イザナギは知恵を持った海からの漂着者に想える。ヒロやんの古里は常世を海に求める記憶を持つ。

七月五日。宇宙の誕生や進化の解明になると予測される「神の粒子」ヒッグス粒子の発見でメディアが沸いている。百数十億年前のビッグ・バングで宇宙が誕生した瞬間後、冷却時の「相転移」と呼ばれる現象により、ヒッグス粒子が光速で飛び回る素粒子に融着し質量を与え万物が誕生したという。このヒッグス粒子がなかったなら太陽も地球も海も無く、君もヒロやんも存在しない。まさにこの素粒子は「神」である。我々は科学の神と宗教の神の間のカオスで揉みくちゃにされながら生きている。どちらにしてもヒロやんには「神」の話は不可解だ。何はともあれ自分を信じて生きる事がこの世の真実である。

約四十六億年前、太陽を取り巻いたガスやチリが衝突と合体を繰り返し、出現した多くの小惑星の一つ原始の地球に長年大量の隕石が降り注ぎ続け、温度が上昇し、蒸発したガスは多量の水蒸気を含む大気をつくった。太陽と地球間の絶妙の距離が、やがて隕石衝突の減少と共に地球を適度に冷却し、大気に含まれていた水蒸気が大量の雨を降らせ海を誕生させた。海は生命の古里なのだろうか ? ヒロやんは波の音に古里で過ごした時のような心地好さを覚える。2012年2月14日のナショナルジオグラフィックニュース・ジャパンは「生命の始まりは海ではなく陸地だった」と報告しているが。生命の誕生は陸地の地熱地帯、特にイエロースト-ン国立公園で見られるような熱泥泉らしい。ヒロやんは、生命の出現は地中から湧いてくる高熱の泥だまりより、南の海に期待する。ブツブツ噴き出る熱泥泉には、多くの無機物が含まれているとはいえ、生命のゆりかごを想像したくない。海がいい。子供の頃、古里の小学校で習った歌がある。

「われは海の子」    作詞、作曲者 不詳、 文部省唱歌

一/  我は海の子白浪の    さわぐいそべの松原に

煙たなびくとまやこそ 我がなつかしき住家なれ。

二/  生まれてしほに浴して 波を子守の歌と聞き

千里寄せ来る海の気を 吸ひてわらべとなりにけり。

三/ 高く鼻つくいその香に 不断の花の香りあり

なぎさの松に吹く風を いみじき楽と我は聞く。

日本国パスポートとフランス滞在許可証の谷間で人生の過半数を過ごしてきたせいか自分自身の帰属意識は国籍を越えた故郷へと想いを募らせる。世界地図を眺めているとフランスから西に途方も無く広がる二大洋に阻まれた海の最果て「故郷」に何があっても行ってみたくなる。唯一そこがヒロやんの固有文化を見出し心を落ち着かせることのできる場所と純粋に思うのである。二大洋に浮かぶ島から島へと、無国籍的な垢を洗い流しながら故郷の島国へ、一種の巡礼的行為の旅をしたいのである。海亀が産地へと旅するように。生き物がシンプルな人生をシンプルに生き、より良い遺伝子だけを残して果てるように。

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